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走る列車のり古里へ


 子供の頃、電車の車掌さんや、切符にハサミをいれる駅員さんに憧れたことはあったが、まさか同じ鉄道員でも電信柱の上で仕事することになろうとは……。まだ十五歳か十六歳である。
 山陰線は日本海すれすれに走っている。特に受けもち区間だった出雲市から石見大田間は、ほとんど海に沿って走っている。おまけにトンネルが多い。出たかとおもうと゛ポーッ″。すぐまたトンネルだ。
 あの頃は電線が裸のままむきだしだったから、潮風で銅線が錆びて暴風雨がくるとすぐに切れてしまい、電話も、タブレットも、信号機も全部だめになる。だから夜中であってもすぐに行かねばならない。貨物列車を臨時に出してもらって、石炭車か機関車の鼻先に乗って徐行運転をしてもらって暗い空に眼をこらし電線をみていく。切断箇所をみつけると飛び降りる。皮の道具袋と箱型の大きな携帯電話機を肩に十文字にかけて電柱にのぼる。
  眼直下には日本海の高波が吠えている。強風での雨合羽のボタンがちぎられ、合羽がパタパタはねて振り落とされそうになるのをこらえて、凍える手でペンチを握り銅線をこすってみがき電話機の線をつなぐ。ハンドルをまわす、カラマワリだ。電柱を降りて電線の切れているところを探して歩く。トンネルをくぐらなければならぬときもある。真夜中のトンネルを抜けるときは、こわさで寒さも汗になる。
 神戸が空襲されたとき、三宮に動員をかけられた。駅前に大きな鍋でシジミを煮ていた。まわりには喰べたあとのシジミの貝ガラが山になっている、それをかきまぜ拾ってあの極小の貝柱をツマヨウジでほじって喰べている者たちがいた。
  次の日、沢山の電線の輪を両肩にかついで貨車に運びその列車で明石に向った。途中、駅ではないところで降ろされた。電線をなげおろして番小屋みたいなところまで運びおわったときはもうすっかり暗くなっていた。今夜はここで泊まる。そしてこの夜明石の波状攻撃を間近にみた。体中がふるえた。応急の修理をしながら姫路に到着。姫路は焦土と化し、残っているのは姫路城だけだった。骨組だけ残った宿でゲートルを巻いたまま横になる。姫路城がシルエットになって、キリ抜きみたいだった。宿のおかみさんらしき人が「城が残っている限りもう一度空襲がある」という。ねむれなかった。ときどき遠くで不発弾がはじける。
  次の日、修理を一段落して駅からちょっと離れた小高い丘の下の日陰でニギリメシでおそい昼食をとっていると、さえぎるもの一つない向うにみえる駅でポーッと一声発して列車が動き始めるのがみえた。そのとき突然一番年上のNさんが「あれに乗れ!あれに乗らんと出雲にいつ帰れるかわからんぞ」。一斉に五人が荷物をかかえて、すでに駅を離れた列車めざして走りに走った。
 やっとのことで動く列車にぶらさがるようにして乗ることが出来た。

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