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”異変”の間借り生活  久米先輩と銭湯通いも


 この鉄路を、どこまでも、どこまでも歩いていけば、金はなくとも東京に行ける、と電信柱のテッペンで夢をふくらませたときから五十年がすぎた。
 "上海帰りのリル゛の流れる、まだバラックの家の残る東京。池袋西武線の櫻台、十三間道路を渡った麦畑の中にポツンとあった下宿屋の陽がはいらない三畳一間。 一本ぶらさがった裸電球を昼間からつけて、近所の八百屋からリンゴ箱二個もらってきて、拾ってきた板をわたして机にした。夜、床をしけばフトンを踏まなきゃ歩けない。食事のおかずはいつもホウレン草。七輪で火をおこし、うちわでぱたぱた。炭火がはじけて眼の中に入る煙を吸ってせき込む。いまおもえばなつかしい。
 二階に住むのはパンパン姉妹。毎夜毎夜、進駐軍のアメリカ兵がいれかわりたちかわり、やってくるからうるさいのと、あやしげな声に悩まされるのとで、とてもがまん出来なくて文句を云いにいったが、彼女たちのはなしをきいて同情し仲良しになっちゃった。
 劇団「ぶどうの会」の試験にうかって、本郷に住むようになった。弓町のブリキ屋さんの二階に間借りしたときも、隣の部屋の中年の婦人がそのような仕事?をしていた。御徒町駅近くの街頭にたって客引きをしているところを見たことがある。この婦人は主人が戦死、田舎にいる祖母と子供三人を養うため、仕方なくこんな商売を……。また同情してしまった。それからは一週間に一度お邪魔することに。本郷界隈を二年ごとに転々とした。追分、弓町、菊坂、春日町、本郷一丁目と。
 劇団の初期のころ、追分に住んでいるときは劇団の先輩久米明さんには大変お世話になった。久米さんが住んでいたところと私の下宿が近く、銭湯にはいつも久米さんが誘ってくれた。久米さんの風呂は長く、いつまでもウーンとうなりつつ湯につかっていた。私はいつも先にあがって三十分は待たされていた。銭湯からの帰り、脇のごく小さな店「道草」という赤ちょうちんでビールをご馳走になって、先輩と肩を並べて、下駄をならしてぶらぶら帰っていく。いまでもなつかしく忘れられないおもい出だ。
 同じころ、未来社の社長、故西谷能雄氏にはこれまた大変お世話になりかわいがっていただいた。
 未来社が出来て最初に出版されたのがアラルコンの「三角帽子」(木下順二訳)だった。この本を一番に未来社に買いにいったのが私だったそうで、当時アルバイトをさがしていた私に、西谷さんが校正の仕事を下さった。しかし、みようみまねのことだから、全然はかどらない。
 西谷さんから電話で「途中でいいから全部もってこい」としかられた。そんなことで、からきし駄目とはいえとてもいえなかったが、金は下さった。

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