自分を発見


  祖父の長之助は素人ばなれのした芸好きだったらしい。尺八と三味線も上出来で、あちこち頼まれては出かけていって家にはあまち居ない様子である。写真でみる限り実に男まえで役者のような顔をしている。
 だが残念といおうか、なんといおうか、祖父とのつながりはない。父も母も養子である。それに私が生れたときには祖父はすでにこの世にはいなかった。
 早くに夫をなくした祖母はまだ子供だった私に、祖父が集めた沢山の芝居絵をみせてくれて毎日はなしをしてくれた。だから五ツ六ツの頃には芝居のことが自然とからだのどこかにうごめいていたわけだ。
 しかし世界大恐慌の1929年にうまれた、8才で日中戦争が始まり、12才で太平洋戦争、16才で終戦。そして戦後の混乱とこんな時代に少年期をすごしたのだから、系統だった教育を受けた覚えがない。覚えがあるのは、小学校3年生のとき、友人の旅館の広間で町内の人たちを集め「戦友」という唄入り芝居を勝手にこしらえて、小学校4年生の学芸会で「石川五右衛門」やって、得意になっていたことなどである。それ以降、学校の成績はどんどん落ちていった。
 いよいよ6年生の終り、先生から進学のことをきかれて「役者もん」になると答えて、父からこっぴどく叱られた。
 その父にも、すでに40をすぎていた父にまでまさかの召集令状がきた。父は家庭を守れと私を鉄道に入れた。少年にはとても耐えられない過酷な労働だった。でもここでも駅長や車掌区長、自動車区助役等が歌舞伎研究会をつくって公会堂で上演していて、それをひっぱりこまれた。
 一昨年、堤春恵作「假名手本ハムレット」(明治初期の歌舞伎役者がはじめて西洋演劇『ハムレット』を演ずるという芝居)でニューヨーク公演をしたとき、同時通訳を毎日して下さったフォービアン・バワーズさんに「あなたは歌舞伎をやっていったのですか」ときかれ「NO」と答えたら「信じられない」と、大変ほめてくれた。
(バワーズさんは歌舞伎を救った男として有名だったのである。日本占領時代支配者だったダグラス・マッカーサーは歌舞伎を追放した。それを全面復活させたのがマッカーサーの副官として、通訳と秘書を兼ねていた、来日当時28才のアメリカ陸軍少佐バワーズさんだったのだ。)
 はなしはそれたが、少年期に友人の旅館の広間で廊下を舞台にして芝居をやった頃のことが、何故か、いま「土佐源氏」をやっていることとかさなってきてーあの頃とちっともかわっていない自分を発見しー少年期の夢が現実となっていたようなー実現出来たとおもえるようなー芝居というものおはどこでもやれるもの、芝居というものはもともとそういうものだといったようなーこれで良しとはおもわないが、一つの自分を発見出来たという納得とでもいえるものを、味わったような気がする。
 戦争がはさまっても、何事がおこっても、人間負けることなく、川に突き当たれば橋をかけて渡り、山にはトンネルを掘ってでも、自分のやりたいことをやるものだとおもった。
 役者というものは不思議なものだとおもうことがある。
 普段はどうあろうと演技の状態にあるときにオレ、ワタシがみえたらおしまいである。才能があるなら余裕のある演技には感動はない。

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